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近代日本と福沢諭吉(2004秋学期)

【テーマ06-1:地縁・家・家族と福澤諭吉(1)-福沢諭吉と中津士族社会】

● はじめに
 近世から近代への変革 ⇒ 政権交代=政治制度の変革
                     →教育・軍事などの制度が変わる
  ↓                 →経済構造・産業構造が変わる
 変化するのは有形のもの(外的なもの)だけでよいのか。
  ↓
  一身独立 ⇒ 一家独立 ⇒ 一国独立 ⇒ 天下独立
 独立自尊

  1. 中津藩の概要と幕末の動き
    譜代・10万石
    細川氏 → 小笠原氏 → 奥平氏(享保2(1717)年-廃藩置県)
      *福沢家は小笠原氏時代から仕える
    8代昌服(まさもと)(天保元(1831)年-明治34(1901)年:天保13(1842)年-慶応4(1868)年)
    9代昌邁(まさゆき)(安政2(1856)年-明治17(1884)年:慶応4年-明治4(1871)年)
    • 伊予宇和島藩伊達宗城(むねなり)三男。文久3(1863)年奥平家の養子となる。
      慶応4年父に代わって大阪城警護に加わり、5月家督相続。
       [養子縁組に際し奥平壱岐が尽力→藩内の権力争いで失脚]
      慶応年間第1次・第2次長州征伐に出兵→明治元年会津征伐に出兵
  2. 蘭学の伝統
    3代昌鹿 中津藩医前野良沢の蘭語学習を援助する。
     安永3(1774)年、前野・杉田玄白ら江戸築地鉄砲洲中津藩中屋敷において『解体新書を翻訳する』
    5代昌高 昌高は薩摩藩島津重豪次男。
     文化7(1810)年、イロハ引の日蘭対訳辞書『蘭後訳撰』(中津辞書)を刊行。
     文政2(1819)年、中津藩医村上玄水が九州で初めての解剖を行う。
    8代昌服
     嘉永2(1849)年、辛島成庵・藤野啓山ら10名、藩の許可を得て種痘子を長崎より取り寄せ実施。
     嘉永3年中津藩兵学師範、藩士14名と共に佐久間象山門下に入塾。
     安政5(1858)年、江戸中屋敷内蘭学塾の教師として福沢諭吉上京。
  3. 「私の為に門閥制度は親の敵で御座る」『福翁自伝』(著12 p.10)
    縁辺事件
      天保9(1838)年、大身衆と供番(ともに上士階級)間の婚姻を制限しようとする動きに反対する人々による騒動。
    御固番事件
      嘉永6年、従来足軽の職務であった「御門番」を下士階級にも行わせ、かつ「開閉番」と改称したことで生じた上士下士の対立騒動。
    「旧藩情」(明治10年 著9)
     第1権利を異にす/第2骨肉の縁を異にす/第3貧富を異にす/第4教育を異にす/
     第5理財活計の趣を異にす/第6風俗を異にす
    『福翁自伝』(明治32年 著12)(史料1)
  4. 福沢家の家禄返上および東京移住計画
    明治維新後中津に残っていた母や姉たちを東京へ呼び寄せようと考える。
    →家計を節約し、福沢を中心にひとつになって新しい次代を生きていく。(史料2①)
    しかし「福沢の名跡御取建」の風聞(史料3①)があり家族は中津での棒禄生活を望む。
    →「旧来之知行=かじりつき、心ならずも其米を喰ひ一日の安楽を貪る」ことは可能だが、「天下の大名じかの封土をも保つことは能はず、先ツ十分一ニ減禄せり」という状況の中で、それは「天下の喰ひつぶし」(史料3②)

    社会的価値観の変化に対する意識の欠如
    武士は「無産の流民」(史料2②)
    「世禄ハ頼むべからず、門閥ハ貴ふへからず」、人々は「才徳」に応じ「独立不羈之生計」を求るより他にない(明治2年四月十七日付藤本元岱宛書簡 書1 p.127)

    俸禄は、封建制度下において「家」を形作る基幹的な要素のひとつ。
    俸禄による生活を持続しようとする限り、封建的な「家」観念から脱却することはできず、前近代的思惟体系から逃れられない

    近代に必要な「一身独立」=経済的独立および精神的独立の必要性
  5. 中津の人々に向けた著作 -「中津留別之書」「県内士民え文学告論文」「中津市学校之記」『学問のすゝめ』初編-
    中津留別之書(明治3年11月)(著10 p.2~)
    一身独立して一家独立し、一家独立して一国独立し、一国独立して天下も独立すべし。
    士農工商、相互にその自由独立を妨ぐべからず。
    人倫の大本は夫婦なり。
    親に孝行は当然のことなり。
    人の心の同じからざる、その面の相違なるが如し。…一国衆人の名代なる者を設け、一般の便不便を謀て政律を立て、勧善懲悪の法始て世に行わる。この名代を名づけて政府という。
    必ず書を読ざるべからず。
    独り洋学の急務なるを主張する所以なり。
    「県内士民え文学告論文」「中津市学校之記」『学問のすゝめ』初編(明治4年末)
    「県内士民え文学告論文」→『学問のすゝめ』初編-「中津市学校之記」:補完関係
    1. 学問の重要性
      「『学問のすゝめ』というのは、実はいい題をつけたものです。…「学問」というのは「情報」ではないんです。主体の問題なんです。」『丸山真男集』15 p.63)
    2. 経済的独立の重要性 →独立の活計を営むための学問
      「人間交際の道に於て躬から労して躬から食ふの大趣意」(史料4)
  6. 中津市学校の設立(明治4年11月)
    資金:奥平家禄の五分の一
     天保義社より2000両(内1500両を基金とする)
    教師および学則:初代校長小幡篤次郎ほか慶應義塾より派遣し、学則も準ずる(史料5)
    ⇒明治8、9年ごろまでには「関西第一ノ英学校」歴 p.307 (史料6)

    市学校の発展 ⇒上下関係にとらわれがちな士族社会の刷新に寄与
             ⇒「旧藩情」を著し中津の人々に示す(明治10年5月)
    再び身分間の差別感情を持つことがあってはいけない。
    士族固有の品行を維持しながらも、社会関係を改めるには学校が有効である。(史料7)
    1. 教育活動の広がり
      小学校・女学校を併設する/奨学金制度を設ける
    2. 授産活動
      富岡製糸場への研究生派遣を援助/二本松製糸会社へ研修生派遣→帰国後教授
    3. 啓蒙活動
      ジャーナリズムへの資金提供(慶應義塾出版社・明治9年創刊「田舎新聞」)
      演説会の主催および演説堂の建設(明治14年3月完成)
  7. 明治維新後の士族社会と福沢
    中津藩重役からの諮問(明治3年11月)『福翁自伝』(著12 p.334)
    芳蓮院(6代昌暢正室)との交流『福翁自伝』(同上 p.368)
    奥平家の東京移住(明治5年7月)
    奥平家の資産管理→福沢を中心とし評議制で運用し、土地購入・地券を担保とする貸付・外国公債の購入などを行う(明治5年11月7日付島津復生宛書簡 書1 p.251)
    • 華族資産の安定化の重要性
      「旧藩情」の意図のひとつは、明治10年6月4日付浜野定四郎宛書簡(書2 p.18)によれば、当時様々な事業に手を出し多くの資産を失いつつあった華族たちに、学校の有用性を知らしめ、各家が旧領国に学校を設立することを促すためでもあった
  8. 天保義社の紛擾(明治16年)と学校設立をめぐる対立(明治21年)
    天保義社:明治5年発足
           天保年間の藩による借り上げに端を発する士族間の互助組織
    ↓      銀行類似業務(預金・小口の抵当貸付・投資など)を行う
    経営のあり方をめぐり対立がおこり、2派に分かれて争う
    激しくなり旧藩主・福沢が仲裁を求められる。
     ⇒発端は公私の別を意識できない士族層の金銭感覚/旧藩への依存心
    中津市学校:明治16年閉校
    ↓     残余資金は士族授産のための養蚕製糸事業、奨学金制度、女学校運営へ
    再興がのぞまれ、福沢も賛成はしている(明治18年8月15日付山口広江宛書簡 書4 p.294)。しかし奥平家の資金をあてにし福沢は反対する。
     ⇒「気楽なるは中津の士族、兼て忠義々々と口に唱へながら、此明なる物の数を知らずして、むかしの大名の如くに思ふとは実に驚くの外なし」(明治21年4月5日付山口広江宛書簡 書6 p.6)
おわりに
 変容しない士族社会 ⇔ 近代社会の担い手としてミドルクラスへの期待
  ↓
 真の文明化のために必要とされるものは何か?
  ⇒明治18年日本婦人論 以降に再び説かれる女性論・男性論・家族論
     Cf.「中津留別之書」
☆参考文献
著:『福沢諭吉著作集』全12巻 慶應義塾大学出版会 2002-3年
書:『福沢諭吉書簡集』全9巻 慶應義塾編 岩波書店 2001-3年
歴:広池千九郎著『中津歴史』下(復刻) 防長史料出版社 1976年

 

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