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慶應義塾OCW >>講義と私>>第1回 福原義春
 

講義と私

本コーナーは大学の講義について皆様にもっとご理解いただき、様々な活用をしていただくことを目的として、広く各界でご活躍の慶應義塾大学卒業生(塾員)の方々から大学時代の講義に関わるご自身の経験や知見に基づき、「講義と私」のテーマでご寄稿いただいたものです。

第1回 福原義春 株式会社資生堂名誉会長

 昭和二十年代のことだから遠い昔である。日吉にあった二年間の大学予科が一年でおしまいになり、三田の新制大学一年が始まった。
 クラス担任になった白井浩司先生はフランス語の文法を担当された。サルトルの「嘔吐」を訳して出版された頃で、フランス語を教わりながらラ・ロシュフコオの箴言とか、文学上の雑談をお聞きするのがたのしみであった。先生はその後六回にわたり「嘔吐」を改訳されるのだが、サルトルとその代表作にかける情熱が伝わってくるのであった。フランス語の先生はすべてそうであったが、そこで読解とか文法を学ぶばかりでなく、余談・雑談をふくめて講義全体からフランス語とフランス文学についての空気が濃厚に香ってくるのであった。
 そうして一年間(白井先生のフランス語の時間は更に一年続いたのだが)がたつうちに、フランス文化のシンボルとしての白井先生のイメージが形成されてしまうのであった。
 Il y a beaucoup de…… (……が沢山あります)の表現で使われるボークーの発音は防空壕の防空と同じですというようなことだって頭の片隅に残っている。経済学部教養課程での白井先生のフランス語教育は、たとえていえば大きな包丁で小魚を捌くようなものかも知れないが、テクニカルなことよりもフランスの香りをしみ込ませてもらったことはぼくの中ではいつまでも記憶として残されている。後に日仏関係のいろいろな組織や運動にかかわるようになったのもここに出発点のひとつがある。
 担任になったのは、やはりすでに故人となられた服部謙太郎先生であった。その頃は助手であったかと思う。服部一族の御曹司でありながら、経済原論を担当されていた先生は誠にスマートな紳士であった。その教室における言葉づかいはもちろん、立居振舞に及んでこれまた大きな印象を残された。講義はスピーディーで明快であり、担任であっても余分な干渉をされなかった。ご自身が紳士として振舞えば、相手もみんな紳士であるべきだと思われたのであろう。クラスの一同も先生にご迷惑をかけるなどとは考えなかった。
 大学の講義ではないが、ぼくの幼稚舎生活で六年間の担任をされた吉田小五郎先生は文学部で史学の講義をされていた。小学生のぼくたちは先生の師である幸田成友先生(幸田露伴の弟)の教える史学に取り組む姿勢と史観を六年間のうちに植えつけられた。授業は小学生向きでもその水準は大学なみだ。
 このような例を挙げたのは、OCW(オープンコースウェア)での知識の伝達は格段の進歩であるが、それだけでは教員の知識やテクニカルなスキルは伝えられても、人格や学問に賭ける情熱のようなものが伝わらないのではないかという当然の危惧を述べたかったからである。
 教育というものは同じ教材を不特定な時に不特定な人々に送りっぱなしで出来るものではない。先の吉田小五郎先生にしても慶應幼稚舎で六年間担任されたのは三回であって一クラス四十名とすれば、百二十人ほどの子供を育てたに過ぎないのだ。真の教育というものは限定した場で特定の人数の人々に与えるもので、人間のコストが膨大にかかるというのが私の考えだ。
 それなら始まったばかりのOCWのコースは、将来に向けて改善の余地があるのだろうか。ウェブ二.〇時代で無限とも云える多数の人の参加によってウィキペディアが成立するように、感性、創造、人間開発に向けてウェブ三.〇の時代が来るのが十年後に迫っているのではないか。 (2006年9月13日寄稿)

 

 

 

福原義春氏

1953年経済学部卒業

 

 

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